東洋の価値観

昭和平成と令和で人の名前に変化が起きています。
男の子であれば「誠司くん」、「仁くん」、「義夫くん」、「孝志くん」など、女の子であれば「徳子ちゃん」、「礼子ちゃん」、「麻美ちゃん」、「信子ちゃん」など、多くの子供たちが東洋思想(特に儒教)に由来する文字が使われていました。
しかし、令和の時代ではこのような名前を聞かなくなりました。これは、近年において儒教をはじめとした東洋の価値観が日本社会から失われつつある結果と考えられます。「徳」は、儒教が唱える「五常の徳(仁・義・礼・智・信)」や、「孝・悌・忠」といった実践例を包括する言葉であり、これらは個人が身につけるべき最も重要な徳目とされます。私の名前である「信仁」は五常の徳や天皇の「仁」が由来になっています。「論語」にある「徳は孤ならず、必ず隣あり」の言葉はよく知られています。また、「誠」は「誠とは天の道なり、これを誠実に行うは人の道なり」という『中庸』から引用されています。

古代ギリシャの哲学者アリストテレスも同じような思想を説きました。彼の概念は「超過と不足を避ける行為が倫理的な徳である」としています。超過と不足を足して2で割った状態がバランスのとれた中庸の状態であるという考え方です。たとえば、「勇気」は無謀(超過)と臆病(不足)の間の中庸の状態であると考えます。
孔子の中庸は「常に発揮できるか」を重視しているのに対して、アリストテレスの中庸は「最適な状態でいる」ことを重視しているという点に両者の違いがあります。

現在、「仁・義・礼・智・信」の意味を正確に説明できる人はどれくらいいるでしょうか?また、「親や年長者を敬い大切にする」という考えを持っている人はどれくらいいるでしょう。核家族の拡大や学校や社会での「長幼の序」が消滅した現代では、この言葉を知る人すら少ないと考えられます。

現代では「Global」「Diversity」「SDGs」「Gender」など、欧米発の新しい「宗教」が広がっています。しかし、これらの新しい「宗教」を持たない私たち日本人が表面的な流行としてこれを受け入れることは非常に危険であると考えます。明治時代においても、西洋文明の流入に押されず、日本人としての誇りを守り続けられたのは、儒教や神仏など東洋の思想が基盤にあったからだと思います。
儒家の根本教典である『四書五経』から引用された格言を、子供たちにも理解しやすく読みやすく編纂した『実語教』や『童子教』といった教科書は、中世から江戸時代まで広く使われていました。また、さまざまなスポーツの国際舞台で日本人の礼儀正しさや誠実さ、高い倫理観が称賛されていますが、庶民の師弟が寺子屋などで幼少期に叩き込まれた東洋の思想に由来する「財物」が、いまだに日本人に残っていると考えます。

しかし、現代の教育では「善悪」の判断基準となる東洋の美徳が排除されています。一神教の精神風土が背景にある欧米の新しい「宗教」が押し寄せ、これを持たない私たちが盲目的に受け入れることはとても危険です。多様な価値観を求める現代において、東洋の価値観や思想を取り戻すことは非常に重要であると考えます。
「善きひとのありよう」を教えた東洋思想に対する再評価は急務です。これは、儒教や仏教、神仏崇拝の影響を受けた日本の歴史や文化が、西洋の個人の権利や損得よりも共同体や道徳的価値を重視してきたことを理解し、受け継ぐことが肝要です。

寺子屋で使用された教科書『実語教』を手に取り、昔の人々が「智」や「徳」を先んじて大切にしていたことを垣間見ると同時に、今日の自身の行動を振り返り、機会が大切です。日本の品性が世代を経るごとに劣化していると感じることは私だけでなく、日本社会全体で共有されるべき課題かもしれません。

西洋の新しい価値観が浸透する中で、東洋の美徳が押し込められつつある現実を直視し、東洋の思想に基づく価値観を再評価することは喫緊の課題です。私たちが盲目的に西洋起源の新しい「宗教」を受け入れるのではなく、日本の歴史と文化に根ざした価値観を大切にし、未来の世代に受け継いでいくことが求められています。

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